大学院生のころ、韓国人留学生の先輩と飲みに行った夜のことだ。
先輩に突然こう言われた。「一緒にカンボジアで学校をつくらない?」
日本とカンボジアで取り組むNGOや団体はある。韓国にもある。でも日本と韓国が一緒に取り組む例はない。
「だからこそやる意味がある。」
と先輩は言った。
最初は、
「はあ、何言ってんだか……」
と思った。
「先輩、そんなことできるわけないですよ。」
とお茶を濁した。
■ 先輩はタフだった
私は断り続けた。でも先輩はあきらめなかった。
何度断っても、また話しかけてくる。
そしてある日、こう言われた。
「日韓で基金を作ったよ。日本と韓国で活動して資金を集めて、カンボジアに学校をつくる。」
目から鱗(うろこ)が落ちた。
「この人、すごいな」
心からそう思った。
そしていつの間にか巻き込まれていた😆。
気がついたら2人でカンボジアに向かっていた。
今でも思い出す、カンボジアに降り立った瞬間のむわっとするあの熱気。
現地にはすでに外交官として配属されていた友人がいた。先輩に紹介して、支援をお願いした。活動はすでにスタートしていたので、現地の学校を見学することになった。
■ 眼が死んでいなかった
そこで見た学校は、壁もない、吹き抜けの簡素な小屋のようなものだった。でも、そこにいる子どもたちの笑顔はとても明るかった。
貧しくても、下を向いていなかった。
みんな良い眼をしていた。
眼が死んでいない。
生き生きしている。
そう思った。
なんだか元気までもらった。
日本人が忘れてしまったものが、ここにはある気がした。
鉛筆1本、ノート1冊。
それだけで勉強はできるのだ。
■ 学ぶことは、贅沢だった
カンボジアの子どもたちは、学びたくても学べなかった。
親からは「そんなことより働いて家族のために稼げ」と言われる。
学校で学べることは、贅沢(ぜいたく)なのだ。
だから親を説得することが一番大変だったと、先輩は言っていた。
彼らにとって学ぶことは、自分のためであり、家族のため。
そして、国が豊かになっていくためのものだった。
学ぶことが、未来につながっている。
そんなことを、子どもたちの姿から感じた。
■ 私の教育への想いの原点
日本に帰って、改めて日本の教育を振り返った。
恵まれている面もある。
でも、
「何のために学ぶのか?」
その問いに、自分の言葉で答えられる子どもは、どれだけいるだろう。
カンボジアの子どもたちの生き生きとした眼が、その答えを持っていた気がした。
学ぶことは、ただ「やらされるもの」ではない。
自分の未来を変えるものでもある。
あの体験が、私の教育にかける想いの原点になっている。
先輩の熱い想いと並外れた行動力。断られ続けても諦めなかったあの姿勢。
今でも心から尊敬している。
■ 中学生のみなさんへ
今、学校に通えていること。勉強できる環境があること。
それがどれほど恵まれたことか、カンボジアの子どもたちが教えてくれました。
でも「恵まれているから勉強しなさい」と言いたいわけじゃない。
私があの子どもたちを見て思ったのは、学ぶことは、本来「義務」だけではなく、「喜び」でもあるということです。
知らなかったことを知る。
できなかったことが、できるようになる。
昨日の自分より、少しだけ前に進む。
そんな小さな喜びを、ぜひ一度感じてみてほしい。
カンボジアで見た子どもたちの、あの生き生きとした眼。
今でも、私の記憶に残っています。

